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聖ダンスタン大司教    St. Dunstan Archiep.          記念日 5月 19日



 聖ダンスタンは、王であると同時に教会人であり、「大王」という称号に値するアルフレッド王の死の10年後、909年頃グラストンベリーの近くで生まれた。ダンスタンの若い頃については、ほとんど知られていない。彼は、ウェセックスの王家と親族関係を持っていて、グラストンベリーで申し分のない教育を受け、おそらく世俗の仕事に従事していたと思われる。しかし、命にかかわる病気が、彼の目を修道士また司祭としてのもっと直接的な神への奉仕に向けさせた。943年頃、国王エドマンド一世は、彼にグラストンベリーで修道院生活を再興するように命じた。その時から、スカンジナビア人の侵入以来中断していたイングランドにおける組織化された修道院生活の復興が起こった。聖エテルウォルドとウースターの聖オズワルドは、エドガー王の十分な支援を受けたこの仕事にあたって、ダンスタンに協力した。この王子が957年に権力の座に着くと、ダンスタンは多くの修道院を創設したり再興したりした。そして970年頃司教、修道院長、女子修道院長の会議は、修道院のしきたりの国家的な規則を作製した。それは大陸の慣行と聖ベネディクトの会則と一致していたが、君主の保護と日常の御聖体の重要性といったような独自の特色を持つものであった。

 聖ダンスタンは、彼の時代のウェセックスのすべての王にとって第一の相談相手であった。若いエドウィの統治下で国外に追放されたが、エドガーが彼を呼び戻し、959年にはカンタベリーの大司教とされた。現在のイギリス国王の戴冠式は、973年にバースでイングランド全土の王としてのエドガーの即位式のためにダンスタンによって編纂され用いられたものに由来している。しかし神聖な職務、修道院の組織化、教会生活の改革また世俗的な政治的手腕は、この多才な人間の種々の側面を語り尽くしているものではない。彼は、金属細工人や、鐘の鋳造者としての器用さを信頼されていた。彼はまた、熟練した写本筆記者また製図家であったように思われる。また彼はハープを演奏し、人間の声による音楽を愛好していた。彼が祭壇で歌ったとき、「彼は主と顔と顔を合わせて語っているように見えた」と同時代人は書いている。カンタベリーでは、一人の老人として、聖堂学校の少年達を教えるのが、彼の喜びであった。彼は温和な教師であったので、その記憶は彼の生徒達によって大事にされたことであろう。彼の図像上の表象は、一対のはさみである。後の伝説によれば、襲いかかる悪魔の鼻をそれでつかまえたという。彼は988年にカンタベリーで死去。